2024.11.07
限りある時間の使い方 人生は「4000週間」あなたはどう使うか? という最高な本があるんだけど(誓って言うけど生産性を上げようといった内容ではない、むしろ逆)、その著者のオリバー・バークマンがYou Can't Hoard Life(人生は貯め込めない)ってブログを書いていて、最近よく考えていることをすごくよく説明していたので日本語訳しました。
先週のある日、ノースヨークムーアで大雪が降った夜の翌朝、家の裏手の尾根を散歩してた。雪は優しく降り続けていて、朝日のピンク色の光を受けていた。 遠くの木に鳥の群れが降り立つのを眺めていた。 鳥たちの動き以外は、景色全体が完全に眠りについているみたいだった。 まさに魔法のような体験。
そして当然、なんだかそれを後ろめたく感じる方法を見つけちゃった。
その気持ちを言葉にすると、こんな感じ: 「これすごい!こういう体験大好き!だからこそ、この瞬間を最大限に味わいたいし、それに、この先ずっとこういう体験を何度も得られるように頑張らなきゃ!」
って。言うまでもなく、これって今この瞬間に身を委ねるのに最適な方法じゃない。
でも、主には、この気持ちって言葉が問題じゃなかった。 もっと身体的な「こわばり」とか「つかもうとする感じ」で、この瞬間を掴み取って自分のものにしようとする試み。 そうすると、まあ当然、その逆に自分から遠ざけてしまうんだよね。
この「こわばり」って言葉は、あるすごくいいツイートから借りてきた。そこでは、瞑想が助けてくれるのは、まさにこの「こわばり」をやめることだって書いてある(他の瞑想の先生たちは「つかもうとすること」とか「しがみつくこと」とか「執着」って言ったりする。共通してるのは、なにかが起こってるときの緊張感)。
仏教心理学って、あの尾根道で僕が経験してた特殊な「こわばり」について、特に洞察に満ちてると思う:
つまり、嫌な経験に抵抗したり、今ない経験を欲しがったりするだけじゃなく、今ある良い経験を必死に握りしめようとすることで、自分を不幸にしちゃうってこと。
自然の中でこういうの経験したことあるかも。または赤ちゃんとの魔法みたいな瞬間とか。 でも、もっと普通の場面でも起こるんだ。例えば、その日は仕事がいつもより順調に進んだとか、運動する習慣を守れたとかいう日の終わりに、「いい日だったな!」って思う代わりに、「こういう日を目指してるんだから、これからもずっとこんな日が続くようにしなくちゃ!」って考えちゃったりない? 結果:素直に喜べるはずのことが、新たなストレスの源になっちゃう。
もちろん真実は、経験っていうのは味わうためのものであって、貯めこむためのものじゃない。J. Jennifer Matthewsが「Radically Condensed Instructions for Being Just as You Are」って本で言ってるように、「人生から何かを取り出すことはできない。それを持っていける『外側』なんてないんだ。人生の外側に小さなポケットがあってそこに「人生の備えを貯めこむ」なんてことはできない。経験を「実績として積み重ねよう」として日々を過ごすことや、経験のコレクションを最大化しようとしたり、似たような経験が将来も得られる自信を持とうとしたりすることは、結局それらを完全に楽しめない立場に自分を置くことになる。だって、別の目的が働いているからね。
いつものように、こういうことの根底には、自分の有限性に向き合うことの大きな難しさがあるんだと思う。確かに、経験を味わうんじゃなくて貯めこもうとする生き方は、そんなに楽しくない。でもそれは、人生の外側に安全に立っているような感覚を強めるのに役立つ。
人生に「十分な何かを得ている」けど、決して完全には飛び込まない。そこには全ての脆さや不確実さ(そして最期が来ることの意識)が伴うからね。毎年の冬の朝、雪の積もった道を歩き続けることを想像するとき、本当に執着してるのは「永遠に」って部分なんだ。これって明らかにバカげてる。だって、たとえ残りの人生ずっとそうして、普通より長生きしたとしても、「永遠」なんてありえない。それはただの数十年分の冬の散歩。宇宙の時間の広大な流れの中では、見えないくらいの小さな点に過ぎない!僕たちの「こわばり」は、何かを永遠にすることには絶対に成功しない。
このような「こわばり」や「つかもうとする」のと対照的なのが、日本の茶道の精神。その洗練された儀式の正確さは、まさにその時だけの、貯めておけない瞬間の本質を表現するためにある:
「茶会は『一期一会』として、細心の注意を払うべきものです。たとえ主人と客が社交の場で頻繁に会うとしても、その日の茶会を全く同じように繰り返すことはできません。こう考えると、その出会いは本当に一生に一度の機会なのです。」
もちろん、百回お茶会することはできる。同じ人たちとずっとできる。 でも、その茶会、そのお茶は一度きり。そしたらその瞬間は永遠に消えていく。
こういう「こわばり」のない状態で人生を過ごせる日は、なんだかすべてが自然と楽しく感じられる。それは無理に味わおうとしたり、意識的に「感謝しよう」としたりするからじゃなくて、ただ単に、邪魔をしていた別の目的を(一時的にとはいえ)手放せたから。
そういう日はずっと上機嫌で過ごせるっていうわけじゃない。だって、美しい瞬間が過ぎ去って永遠に消えていくのは悲しいことだよね。永遠の保管庫にしまっておけないなんて!
でも、それは「しみじみとした感動」って言えるような悲しさ。
その経験から何かを引き出すんじゃなくて、深めてくれる感覚。瞬間を掴んでしがみつこうとするのをやめて(皮肉なことに、それが瞬間を遠ざけちゃうんだけど)、完全にその中に入り込んで、自分がその一部になって、それになる。そんなときに感じる感覚。